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新田神社について

附近縁故の古跡

矢口の渡(多摩川大橋付近)

現在の矢口の渡は区内最後の渡し舟として残っていたが、昭和24年に多摩川大橋が完成すると廃止になった。
多摩川の流路の変遷は著しく、現在の下丸子の地も江戸時代中期頃までは、上丸子・中丸子と同様に河南(神奈川県側)にあった。

そこで『武蔵演路』『新編武蔵風土記稿』(江戸時代の官製地誌)等の様々な古文書、史跡の位置などから推測すると、矢口の渡で義興公が自刃された当時(1358年)の多摩川は光明寺池から新田神社のすぐ裏手を流れており、古矢口の渡は「妙蓮塚三体地蔵尊」と「頓兵衛地蔵」を結んだ辺りではなかろうかと思われる。

矢口の渡については、古来の諸書に「此矢口ノ渡ト申ハ、面四町ニ餘リテ浪嶮ク底深シ(太平記)」、「新田左衛佐義興武州丹波河ノ船中ニテ自害(神明鏡下巻)」、「新田左衛佐義興自害於武蔵國(大乗院日記目録)」等とあるように、それが多摩川に接した渡し場であることだけは確かだが、荏原郡矢口であるという記載がないため様々な議論が行われた。

その代表的な論点は古街道と基氏の入間川在陣を重視した「多摩郡矢野口説」とこれに対する多摩川の古流路と古跡の存在を重視した「荏原郡矢口説」である。

矢野口説の論拠としては、
①矢野口(東京都稲城市)は古名を「谷の口」といい地名が共通であり、この時代の戦場として谷口が著名であったこと。
②鎌倉→関戸→府中→久米川→入間川を通る鎌倉街道が谷口村に近い位置にあること。
③入間川陣との関係から谷口が位置的に至当であること。
などがあげられる。この矢野口説を肯定したものとして『多摩名勝図会』に「荏原郡にも矢口村あれど彼所は義興主従の骸の流れて附たるを埋葬したる所なり」とある。

また『三スイ一覧』に「義興の自害せるは多摩川の谷口なり、荏原郡の矢口にあらず」とある。現在の矢野口の渡(上菅の渡し)は昭和10年に上布田の渡(下菅の渡し)と合併して、菅の渡しとなり、多摩川最後の渡船場として残っていたが、昭和46年4月に京王帝都電鉄の相模線が開通し、昭和48年6月2日に廃止となった。

これらの諸説に対して、菊池山哉氏(『東国の歴史と史跡』)は反証5点をあげて矢口説を擁護した。まず『太平記』に記された渡し場の様相が「面四町ニ餘リテ浪嶮ク底深シ」とあり、水面四町(約440m)とはおおげさな表現としても、それは川の湾曲部を見渡した描写ではなかろうかと想定し、河口部でなければとても理解し得ない状況だろうと述べている。

また矢野口は布田宿へ抜ける街道にあった旧村で、この村から鎌倉街道へ出るには、多摩丘陵を踏み分けない限り通じることは不可能であるとし、入間川陣とも公通上連絡しない不便な土地で、しかも近くに幕府が鎌倉防衛のために設けた関所もあり、義興公主従がわざわざそこに近寄るはずがないとした。

さらに矢口の渡で義興公が自刃された六年前の人見ケ原の合戦で軍兵が谷口に集結した時、数万の兵が多摩川を渡った事実をあげ、詳しく多摩川の流路の変遷や河川敷の状況などを考慮して、矢野口あたりはこの頃も浅瀬であったと主張した。また矢口付近には多くの義興公にまつわる古跡・伝説地が残っていることに対して、矢野口にはまったくそれらしきものがないことを指摘している。

そして、とくに荏原郡矢口説を有力にするものとして、菊池氏は新田氏滅亡後、新田氏の惣領職を継承した一族の岩松氏の所領の一つに「矢口」が含まれている事実があることを指摘している。それは岩松左馬助が自分の所領を列挙して申達した文書『岩松氏所領注文』「正木文書・応永2年(1395年)」「矢口六郷一円」の記載があり、この当時、区内の矢口・六郷全域が彼の支配下にあった事を示している。

左馬助は岩松治部大輔直国の子で幼名を土用若丸といい、長じて満国と号した。岩松氏は上野国新田莊岩松邑より起こる新田支流の豪族で、満国の祖父(実は伯父)にあたる岩松四代経家は新田義貞公に属した武将である。

経家は元弘3年(1333年)の夏の鎌倉攻めで著しい軍功をあげたが、翌々年7月の武蔵国女景の合戦で戦死した。その子泰家が幼少であったため、家督は弟の直国が執事という名目で継いで後見者となり、まもなく泰家が早世したので名実ともに岩松氏五代の実権を掌握した。直国は初めは義貞公に従っていたが、のちに足利尊氏に属して北朝方となり、延元元年(1336年)6月の延暦寺攻めに参陣して戦功をあらわし、正平2年(1347年)4月には上野国由良郷・成墓郷の地領職を安堵されている。

義興公が自刃した頃には足利基氏に仕えていたが、正平16年(1361年)に執事畠山国清が謀反を企て、伊豆国修善寺に籠もり城郭を構えて抗戦したので、この討伐に参戦し、翌年これを打ち破って軍功を賞され知行地を与えられた。その時、新田義貞公以下新田方の武蔵野をはじめ関東一帯にある没官領をあわせて受領し、ついに新田氏の惣領職となったと伝えられている。

満国の伝記については余り知られていないが、『鎌倉大草紙』に満国は何のこんたんでか、新田義貞公の第三子義宗公の遺子容辻王丸をひそかに養って、一門には実子と披露し後嗣と定め、満純と名乗らせたと記されている。この事実も岩松氏と新田氏との深いつながりを示す史料として注目することができる。

いずれにせよ、矢口と六郷一円が岩松氏の手に入る以前は、義貞公ないし義興公の旧領ではなかったかとも想定され、それが没官領となって、直国に与えられたとすれば、義興公の矢口の渡での自刃の場所としての条件が満たされるわけである。

矢野口および矢口における渡し場については『大日本地名辞典第六集坂東』に「多摩郡の矢野口は府中より鎌倉に向かう渡津たりしごとし。延喜式の古驛路は橘樹郡小高にて渡津したり。後の丸子の辺とす。矢口は丸子に接すれば相距る遠からず。文明年中の道興回国雑記にも江戸芝浦より荒井(新井宿)に出て、丸子を経て鎌倉に向へり。徃昔の東海道駅路は丸子矢口の辺にて多摩川を渡りしを知るに足らん」とあり、矢口付近で多摩川を渡る行路があったことは確かなようである。

また江戸初期には神儒一致の主張を立てた林羅山が神仏混淆の甚だしいのを慨き、古事記・日本書紀・延喜式・古語拾遺などの古典に拠って、著名な神社の祭神ならびにその創立の由来を考証した『本朝神社考下之五』にも矢口の新田明神が新田義興公の遺跡であるとされてから、江戸期の数々の文献が矢口説を肯定していることは、荏原郡矢口説が多摩郡矢野口説に比べてはるかに有力であることを意味するものであろうと思われる。

また、もともと大河川というものは、その歴史をたどる大雨によって上流より多量の土砂を運び、下流に平野を形成する。また流路も大きく変化し、平野部に入ると大きく蛇行し、大洪水の際に地形を変えるのである。縄文時代後期には現在の多摩川園付近が多摩川の河口であったものが、その後次第に土砂を堆積し、弥生時代には大田区の現在の低地帯がほぼ陸化したといわれている。

多摩川の河口部における流路も古くは一定しておらず、鵜の木の台地を過ぎて低地部に放射線状に幾流にも分かれ、東京湾に流入していた時代もあり、ある時は南流して鶴見川方面に流れ、ある時は北流して大森方面に流れながら現在の地形を形成したといわれている。近世に入り、各地の文書に多摩川の記録が残るようになり、平川家文書の天正17年(1589年)から、安政6年(1859年)までの洪水の記録によると大洪水のあった年だけでも62回に及ぶ。しかし小洪水を含めると水害はほぼ毎年、年によっては数回あったのではなかろうかと推定されるのである。

このように多摩川は古来より水害の多い川であったが、この多摩川が大水害の恐れの少ない川となったのは、昭和9年に建設が完了した多摩川両岸の堤防によってであるといわれている。その堤防建設の引き金となったのは、明治40年・43年・大正2年・3年の多摩川下流を襲った大水害であった。

現在は荏原郡側(東京都側)になっている下丸子村も、もとは対岸の橘樹郡(神奈川県側)に上丸子村・中丸子村・下丸子村として属していた。それは平川家文書の検地帳を見ると、慶長期(1596~1616)には、下丸子村はまだ橘樹郡になっているが、元禄期(1688~1704)には荏原郡となっていることがわかる。

このように義興公が自刃された当時の矢口村の地形を考える場合に、とても現状のようには考えられないのである。そこで当時の多摩川の流路を考察する上で重要な手掛かりとなる史料の一つに平川家文書の『古多摩川跡略図』(享保期1716~1735)をはじめとする諸図に、多摩川跡とされる矢口沼と光明寺池の存在があげられる。

この矢口沼と光明寺池については『武蔵演路』に、

矢口沼 長ニ百間(546m)横四十間(73m)或三十間程 是古への川筋なるべしと云、いにしえの此地は海の入江とみゆ 光明寺池 本堂左の方にあり、東西凡二百間(364m)南北五十間(91m)是古への川筋にて、矢口の沼につづき、中堤あるのみ、義興公の溺死は、これらの処なるべしといへり

とある。この光明寺池は現在でも、その一部が残っているが、矢口沼は昭和初期まで水田地帯としてその形を残していたが、今は宅地化されて現存していない。

また義興公自刃の場所及び矢口の渡については『四神地名録』に、

義興溺死有りし所は、矢口と此池(光明寺池)の辺と云ふ事也 また『新編武蔵風土記稿巻四十四』に「古蹟矢口渡迹」として、古鎌倉街道の内にありし渡なり、その所は今の新田社の辺なり、今も多摩川の迹とおぼしき所はくぼみて見ゆ、多くは水田となりたれど、長三百間ばかり、幅四十間ほどもあるべし、新田義興此地に自害せしことは、己に新田社の条に出せり

とある。

これらの点を考慮して考えてみると、当時の多摩川の流路は、光明寺池から矢口沼にかけて現在の新田神社後方付近を流れこんでいたという見方が可能である。そして、これらの文献はいずれも義興公自害の場所として、光明寺池から新田神社の辺をあげている点に注目することができる。

また、『太平記』に

「水ノ底ヲ潜テ向ノ岸ヘカケアガリ・・・同枕ニ討レニケリ」

とあるように、「妙蓮塚三体地蔵尊」がまつられた場所は、当時の多摩川の対岸地であり、そこは矢口の渡に近い位置ではなかろうかと想定される。そして「頓兵衛地蔵」が義興公の冥福を祈り、供養するために建てられたものであるならば、義興公自刃の場所に最も近い矢口の渡付近に建てられたのではないだろうかという見方が可能ではないだろうか。昭和初期まで頓兵衛地蔵の後方は矢口沼跡とする水田地帯として残っていたことも確かである。

三体地蔵と頓兵衛地蔵を結ぶ距離は約350mあり、(現在の川幅は約160m、緑地帯を含めると約450m近くある。)『太平記』の水面四町(440m)という渡し場の様相は、おおげさな表現としてもほぼこれに該当するのではないだろうか。
新編武蔵風土記稿巻之四十四』には「新田義興墳」として、

相伝ふ此墳は義興の屍及びその時の舟をこほちて埋めし印の塚なり、 そのかみは玉川今の墳の後をながれしにより、川辺の方を正面としてつきたるゆへ、 社をいとなむに及て墳前莱地なかりしかは、 後の方へみやをつくりせしかど、今に正面の方へも石の鳥居をたてり

とあるように、この「三体地蔵」と「頓兵衛地蔵」を結ぶ辺が当時の矢口の渡であるとするならば、矢口の渡で自刃された義興公のご遺体を乗せた舟が現在の新田神社背後地に流れ着いて、ここに義興公が葬られ、新田大明神としてまつらたれたという『太平記』の記述と矛盾しないことになるのである。

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