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新田神社について

附近縁故の古跡

女塚神社(大田区西蒲田6-23-1)

関東公方足利基氏の執事畠山国清は、義興公を謀略をもって殺害を計るべく竹沢右京亮に命じると、右京亮は公家の少将局という身分の高い女房を自分の養女にして、義興公に側女として献じて、義興公に近づいた。ある日、右京亮は義興公を自宅へ迎えて殺害しようとしたが、少将局が義興公に思いをよせ、凶兆あると義興公を留めてしまった。事のならなかった右京亮は怒り、郎党に少将局の殺害を命じたのである。
これを里人たちは哀れみ、塚を築き、女塚霊神としてまつったのである。

  

首塚(埼玉県入間市豊岡3-7-32 愛宕神社境内)

矢口渡で自刃、討ち死にした義興公とその主従13人の首を酒に浸して、入間御所に運ばれ、関東公方足利基氏のもとで首実験され、この地に埋葬されたのである。
その後、「太平記」には「入間川宿に雷が落ち、在家三百余、堂舎・仏閣数十ケ所、一時に灰燼となる」とあり、義興公の祟りを恐れ、首塚の上に小祠を建立し、愛宕神社に義興公を御祭神として合祀したと伝えられている。

 

兵庫島(世田谷区玉川3-2 兵庫島河川公園)

矢口渡で義興公に殉じた家臣の一人、由良兵庫助が流れ付いた場所だと伝えられている。 この場所が新田神社より約10キロ上流にあるのは、兵庫助の遺体が多摩川の上げ潮にのって、逆らって流されたのだといわれている。
「太平記」に記された矢口渡の様相が「面四町に餘りて浪嶮く底深し」とあり、水面四町(約440m)とはおおげさな表現としても、当時と現在とでは川の流れも川幅もかなり異なっている。

 

矢口地名考

矢口の地名については「新編武蔵風土記稿」などに、昔は奥州への街道にあたり、日本武尊(ヤマトタケルノミコト 第12代景行天皇の皇子)が東夷征伐の際、手向かう敵と矢合せをした古戦場の一つで、古くは「矢食村」と称していたが、いつしかなまって「矢口村」といわれるようになったと記されている。
また、多摩川の対岸の川崎側にも「矢上」「矢向」など矢に関する地名が残っている。

 

東急多摩川線「武蔵新田駅名」の由来

よく駅名や地名で「○○新田」と称して「○○しんでん」と読むのは、そこが新しく開墾された地域であることを意味しているが、ここは「にった」であり、武蔵の国(東京)の新田神社があるところという意味で、東京急行電鉄株式会社が「むさしにった」と名付けたのである。

新田神社(川崎市川崎区渡田2-14-8)

この新田神社は延元3年(1338年)7月2日新田義貞公が越前国藤島(現在の福井市)で討ち死にすると、その重臣の一人、亘 新左衛門尉早勝が義貞公の遺品である差添の名剣・七ツ入子の明鏡・陣羽織を持って帰郷し、ひたすら冥福を祈って供養していたところ、里人らも公の徳を追慕し、その三種の形見を埋納し、廟を営んで主君新田義貞公を新田大明神として崇めまつったのである。
『調布日記巻之下』に「毎年正月一日と七月二日の暁には軍馬々と音する奇あり、是や河北矢口村に鎮 座します庶子義興公の霊神、比御社に来り給ふなりと民人等が云伝へり」とある。

  

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