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新田神社について


御祭神

創 祀

正平13年(1358年)

由 緒

清和天皇より六代の八幡太郎義家の嫡孫源義重は上野国新田荘を領し、新田氏を称しました。新田義興公はその七世の裔(えい)新田義貞(よしさだ)公の第二子で、幼名を徳寿丸と申し、元服の折には後醍醐天皇より「義貞の家を興すべき人なり」として義興という名を賜り、従五位左兵衛佐に任ぜられました。

義興公は父義貞公の遺志を継がれ新田一族を率いて吉野朝(南朝)の興復に尽力され、延元2年12月(1337年)北畠顕家(あきいえ)卿と共に鎌倉を攻略、翌3年美濃国青野原に於て足利軍勢を撃破されました。正平7年(1352年)には宗良(むねなが)親王を奉じて、弟義宗・従弟脇屋義治と共に足利尊氏・基氏を再度鎌倉に攻め、之を陥して暫(しばら)く関八州に号令されました。

その後、武蔵野合戦を始め各地に奮戦され、一時、鎌倉を出て越後に下り待機養兵されましたが、武蔵(むさし)・上野(こうづけ)の豪族等に擁立されて再び東国に入られました。この事を聞知した足利基氏・畠山国清は大いに恐れをなし、夜討・奇襲を企てるが、常に失敗しました。そこで、国清は竹沢右京亮(うきょうのすけ)・江戸遠江守(とおとうみのかみ)らに命じて卑怯な計略をめぐらしました。

竹沢は公家の少将局という身分の高い女房を自分の養女にして、義興公に側女として献じて味方を装い、江戸遠江守は所領の橘樹郡稲毛荘を没収されたので、いっしょに鎌倉で戦おうと誘い出しました。
正平13年(1358年)10月10日、江戸氏の案内で多摩川の矢口の渡から舟に乗り出すと、舟が中流にさしかかる頃、江戸・竹沢らにいいふくめられていた渡し守は、櫓を川中に落とし、これを拾うと見せかけて川に飛び込み、あらかじめ穴を開けておいた舟底の栓を抜き逃げました。
舟はだんだんと沈みかけ、ときの声とともに、川の両岸より江戸・竹沢らの伏兵に矢を射かけられ、あざむかれたことを察し、義興公は自ら腹を掻き切り、家臣らは互いに刺しちがえたり、泳いで向こう岸の敵陣に切り込み、主従14名は、矢口の渡で壮烈なる最後を遂げられました。
そして、同年10月23日に悪計加担の渡し守は難船水死し、江戸遠江守は義興公の怨霊姿に驚き、落馬し、七日七晩溺れる真似をして狂い死にしました。
その後、足利基氏入間川領内には義興公の怨念と化した雷火が落ちたり、竹沢・畠山については、罪悪を訴える者があり、基氏に攻められ諸所流浪の末死にました。

この後も義興公の怨念が「光り物」となって、矢口付近に夜々現われ、往来の人々を悩ました。そこで義興公の御霊を鎮めるために、村老等によって墳墓が築かれて社祠が建てられ、『新田大明神』として広く崇め奉られました。これが新田神社の起こりです。(※大明神とは神様の中でも特に霊験あらたかな御神徳の高い神様をいいます。
例 稲荷大明神や神田明神などがあります)

江戸時代に入ると、将軍徳川家の祖先がこの新田家であるということより、松平家から「新田大明神縁起絵巻物(都文化財)」や「新田神君碑(大田区文化財)」の奉納などもあり、武運長久の守り神として、武家信仰の神社として栄えました。その後、蘭学者である平賀源内が新田神社に参拝して、境内の不思議な篠竹で厄除開運・邪気退散の「矢守(破魔矢の元祖)」を作り、広く御祭神の御神徳を仰がしめることを勧めました。また、源内は江戸一族の策謀を卑劣なやり方として、この新田神社の縁起をもとに浄瑠璃・歌舞伎「神霊矢口渡」を脚色し、これが当時の江戸っ子の気質と合ったかのように、大変うけて爆発的な大当たりとなり、江戸庶民の新田詣が始まりました。現在でもこの「神霊矢口渡」の一部分が各地の歌舞伎場などで上演されています。

また新田神社が江戸日本橋から約4里(17km)のところにあり、「十万庵遊暦雑記」や「調布日記」などの紀行・案内書類に記されていますように、目黒不動・大鳥神社→池上本門寺→新田神社・十寄神社→古川薬師などへとぬける当時の絶好のハイキングコースのひとつでもありました。
その後、明治6年1月に府社に列し、同42年9月には特旨を以て、御祭神に従三位が追贈せられました。

アニメで学ぶ新田神社の由来

 

祭 日

例大祭 10月10日

矢 守(破魔矢の元祖)

御祭神の御塚後部には、源氏の白旗を立てたものが根付いた「旗竹」という昔から決して神域を越えることがない不思議な篠竹が生えており、雷が鳴るとこの竹がピチピチと割れたという言い伝えがあります。

江戸時代には、「エレキテル(摩擦発電機)」などを製作した蘭学者平賀源内がこの竹で厄除招福・邪気退散の「矢守(破魔矢の元祖)」を作り、広く御祭神の御神徳を仰がしめることを勧めました。
爾来、毎年正月初詣の人々に社頭で授与しています。
神棚、お部屋、玄関などにお飾り下さい。
尚、東面または南面に飾ると、御加護の霊力がアップします。

●江戸時代の「四神地名録」「江戸塵捨」「十万庵遊歴雑記」など書物を見ると、宝暦(1751~1764)頃より「義興の矢」として、門前の茶店で売られていたものが、後に源内の提案により、五色の和紙と竹で作り、新田家の黒一文字の短冊を付けたものを魔除けとして売り出すようになったことがわかります。
そして、この矢二本を買い、一本を御神前に奉納し、一本を持ち帰って魔除け「矢守」にしたといいます。
これは、新田家伝来の「水破兵破」のニ筋の矢に由来しているといわれています。

●源内が脚色した「神霊矢口渡の四段目の艇梁場(わたしば)の段」には、「今が最後観念と振り上がる間もあら不思議や。何国の共白羽の矢二人が吭射ぬかれて。其儘息は絶果たり。義岑臺は起上り。・・・是こそは家の重宝。水破兵破の二ッの矢の御矢と。驚給へば臺は目早く。其矢に短冊が。実もと月明り。何々二ッの矢を奪れては、新田の家名の衰へん事を愁へ。・・・朝敵を亡して兄上の恨みを散ぜん、代々伝はるこの御矢。家の重宝。武運の守り、・・・有難し忝しと踊り上て悦び給ふ。末世の今に至る迄新田の杜へ参詣し、守りの御矢頂戴の。因縁かくとぞ。しられける。」とあり、新田義岑(御祭神義興公の弟の義宗公)が新田の白矢に助けられ、その矢を家の宝とする様が物語られています。

初穂料 1000円

  

御霊信仰と新田神社

『新田大明神縁起』より義興公が怨霊として現れる場面

御霊(ごりょう)信仰は奈良時代末期から公家社会のみならず、広く民間にも浸透していきました。政治上の争いや陰謀によって失脚憤死した皇族や公家の死霊の祟りが疫病・旱魃・虫害・飢饉・火災・戦乱などの天災地変や個人の病気・墳死などの事件を巡って、これらの原因であるかのように広く世に宣伝され、朝廷でもそれに対して復位・贈号・陳謝・慰霊などをもって、これらを鎮めようとしました。
そして、この信仰は現実に起こる数々の天災地変といった社会的・個人的不安を背景にし、それらの原因を説き明かそうとする期待に答えて、民間巫覡らの神がかりや口寄せを通して、ここに名乗りだされた人間霊への民衆の同情と支援とがからみ合って、次第にその時代時代の流行となり、ついには、これらの死霊を神と崇め、神社を建ててまつるようになったのです。

それは京都の御霊会の創始や各地で御霊神社が創建されるようになり、菅原道真公が太政威徳天満大自在天神として、大宰府や北野天満宮にまつられたことなどが、その最も著しい例といえます。
そして次第にこれらの霊はただ祟るだけではなく、その偉大な霊力によって民衆に禍厄災害をもたらす原因すべてをはらいのけることができると考えられました。即ち、怨霊観念では怨念の力が強いことが人々にとって大変困ることになりますが、この御霊信仰においては、怨念の力が強ければ強いほど効力があるわけですから、いっそう人々の信仰が高まったのです。

このように御霊信仰とは、疫病などの天災地変が死霊の祟りによるものであるという古代人の霊魂観ともいうべき怨霊観念と死や穢れに対する古代人特有の恐怖感に基づく忌穢観念とをその中核とし、それにシャーマニズムや密教、浄土教、さらに陰陽道などの中国文化の影響を受けて、それらが互いに絡み合った一種の民間の俗信仰といえるものであろうと思われます。

この新田神社にまつられている新田義興公は、中世における戦乱期に非業な最後を遂げた勇猛果敢な著名武将であり、それは菅原道真公と同様に一般民衆の同情と支援を受け、怨霊神=火雷神=御霊神という神格化の過程をたどり、その御神徳は義興公の人格や勇気ある行動を尊敬するところから生まれ、武運長久・家運隆昌・必勝開運、運を守る神つまり守護神としての恩恵を施し、「新田大明神」として斎い鎮めまつられたのです。

そして、新田神社は地域の守り神として地縁的機能を持ち、義興公鎮魂の道を歩み続けて、平成20年10月に、鎮座650年という悠久の長い節目の年を迎えました。

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